三田焼とは
三田青磁の始まり
三田焼は1751〜1764年頃に小西金兵衛が志手原窯を開いたのが始まりとされる。
三田では良質な陶土、豊かな水、燃料用の薪、登り窯を作る傾斜地に恵まれることなどから次々と窯が増え、「志手原窯」「三輪明神窯」「虫尾新田窯」「天狗ヶ鼻窯」などの窯が三田市南東部に点在していた。
三田焼では陶器で白化粧を施した上に赤絵が施されたものが主流であった。
その後、志手原窯で修行した内田忠兵衛が三田の地で青磁石を発見し、豪商「神田惣兵衛」の出資の元、京都から優秀な陶工「欽古堂亀祐」を招き「三輪明神窯」にて作り焼くこととなった。
三田青磁が製造されていたのは江戸時代後期〜昭和初期。
三田青磁の繁栄と衰退
三田青磁の最盛期は1830〜1844年。大きく発展し全国に流通し、その名を轟かせた。
明治7年には「三輪明神窯」は「三田陶器社」となり、明治14年には田中利衛門が第2回内国勧業博覧会にて青磁を出展し有効賞を受賞するなどさらなる名声を得るも、青磁を焼くには膨大な費用がかかり衰退。
昭和8年明神窯閉窯。昭和19年志手原窯閉窯となった。
一時は志手原窯主小西家16代当主百助氏によって大正8年に窯が再考されたとおもわれたが、昭和50年百助氏が86歳の生涯を閉じられたことにより三田焼の火は完全に燃え尽きた。
世界三大青磁
中国で発展した技術である青磁。アジア各地で広まり、それぞれ特有の形や模様などを確立させてきた。
ブリタニカ国際大百科事典には「中国の竜泉窯、韓国の高麗青磁、日本では兵庫県の三田焼が特に有名である」と表記されている。
それほどまでに、当時の三田青磁は全国に流通していた。
三田青磁の特徴
三田で青磁を始めるにあたり招致された「欽古堂亀祐」は京都の人形師の息子で、型作りが非常に優秀であった。
平皿などが型で作られることは珍しくないが、当時の三田青磁では通常ロクロで作られるような花瓶などの立体物も型でパーツを作り、組み立てるという工程が取られていた。
これにより技量の高くない職人でも一定のレベルの商品を作ることが可能となり、全国に流通された要因もここにあった。